悪魔の足音が聞こえる

ドル円を追うだけの僕の日記

砂の器の話

勝ってたり負けてたりだが、あまりいい状態ではない。精神的な部分で充実していないのは春のせいではあるとは思う。

 

お金を得ても失っても、仕事がうまくいってもいかなくても、あまり変わらない。指の間から砂が落ちてゆくようなもので、指を開いているか閉じているかの違い程度のものだ。風が吹けば指が閉じていようと砂はどこかへ飛んでいく。

「事業も儲かって、仕事もうまくいってて幸せですね」

って言われたことあるんだけど、そうなのか? と考えさせられた。自由な仕事をさせてもらって仕事をしていくにあたってストレスはないとは言わないが、他の、例えば雇われて、好きではない仕事をしている人から見たら、明らかに僕の暮らしは幸せに見えるかもしれない。が、それは相対的なものであって、僕の砂は流出し続けている。

 

砂。

啄木に倣って使ってみたが言い得て妙である。僕は砂を集めているから、手にいっぱい集まった時も満足感が無いのかもしれない。100万勝った時はわーいとは思うがそれは一過性のもので、(また、100万損した時は20倍くらいむかつくので、何か納得がいかない)何か充足感や満足感と言うコードが繋がっていないかのような気持ちである。

 

昔からそうだった気もするが、ゲームと漫画とアニメの世界、そして自己顕示欲と性欲とが褪せていくせいで、相対的にこの砂の理論が顕在化してきているような気がしてならない。昔からこの砂の世界が存在していて、たびたび引きずり込まれる。引きずり込まれるのか、いつもこの砂浜にいて、元気な時に砂を見つめていないだけなのかは分からないが、日光に色あせた本の色が戻らないのと同じで、もう僕の中に色鮮やかな物はないのかもしれない。あったのかさえ疑問ですらある。それでも何か目をそらせるようなものを見つけたい。

 

テレビの番組でチョコモナカジャンボか何かがアイス1位か2位か3位をとっていて(大事なところだけど忘れた)営業か製作の女の子が泣いてたんですよ。3位だったかな。ただ嬉しくて泣いているなら、あまり印象に残ってなかっただろうから、おそらく2位か3位だったと思う。感受性云々は気質の差とか、そういうのを抜きにしても、一生懸命やって心血を注いできたものが評価され、また1位は取れなかった事に対して涙するって言うのは僕の目には素敵に映ったんですが、僕にはそういう煌びやかな物がない。

 

厭世観と言うのは日本語が少し合わない、死にたいとかそういう感情は若いころは多少なりともあったのかもしれないが、そういう気持ちも今や褪せている。やはり砂の器。穴の開いた砂の器がそれに近い。砂の代わりに煌びやかな宝石を入れたいのだが、宝石は見つからず、また、入れてみてもどこかへ零れ落ちていく。代わりに砂を流し込み続けるしかないという時間がまた続いていく。